神とは誰か ― 主こそ神であられる ― 被造物としてささげる礼拝

📖 詩編 100:3<主こそ神であられる ― 被造物としてささげる礼拝>

主こそ、神であることを知れ。主は私たちを造られた。それゆえ、私たちは主のものであり、主の民、主の牧場の羊である。


主こそ神であられることを知れ

詩編100編は賛美の詩であり、礼拝への招きです。
しかしそれは単なる感情的な高揚ではなく、はっきりとした信仰告白から始まります。
「主こそ、神であることを知れ。」
ここで言う「知る」とは、頭の理解ではなく、存在のすべてで神の前に立つ確信を意味します。
私たちが礼拝するのは、私たちが神を選んだからではなく、神が私たちを造り、先に選び、呼び寄せてくださったからです。

改革派神学では、神を知る知識は「啓示」から来ると教えます。
人間の思索や体験ではなく、神ご自身が御言葉を通してご自身を示された結果なのです。
したがって、礼拝とは感情の発露ではなく、神の啓示に対する「応答」なのです。


私たちを造り、養ってくださる方

「主は私たちを造られた。それゆえ、私たちは主のものである。」
この一節は、人間の存在の根本を語っています。
私たちは偶然に生まれた存在ではなく、目的をもって造られた神の作品です。
神学者ハルマン・バヴィンクは、人間を「神のかたちに造られた関係的存在」と呼びました。
主が私たちを造られたからこそ、私たちは主に属する者です。
そして主が私たちの主権者であるゆえに、私たちの人生そのものが礼拝となります。
「神に属する」という告白は、自分の人生の主導権を神にゆだねる信仰の行為です。

日本の文化は「和(わ)」、つまり調和を重んじます。
しかし、その調和の基盤が人間の努力であるなら、いつか壊れてしまいます。
詩編は言います。「主が私たちを造られた。」
真の平安と調和は、創造主なる神との関係の中でこそ回復されるのです。


主の民、主の羊として生きる

「私たちは主の民、主の牧場の羊である。」
神は遠く離れた創造主ではなく、羊を導く牧者のように私たちを見守っておられます。
使徒パウロはローマ書14章で「信仰によって歩む者の人生は、神の国の義と平和と喜びである」と語りました。
羊が牧者の声を信頼してついていくように、信仰とは神の導きに従う従順です。
改革派信仰の中心である「ソラ・フィデ(Sola Fide/信仰のみ)」とは、
人間の功績を捨てて、ただ神に全的に信頼する生き方を意味します。


🙏 祈り

主よ、私を造り、今も導いてくださる神よ、ありがとうございます。
私の人生の主は私自身ではなく、あなたであることを告白します。
今日もあなたの声に耳を傾け、被造物としての謙遜と感謝をもって生きさせてください。
私の礼拝が形式ではなく、存在のすべてをもってささげる愛の応答となりますように。


💡 黙想ポイント

神を「知る」ことが礼拝の始まりです。
創造主であり、牧者である主を信じるとき、人生は恐れではなく平安に満たされます。


🔍 適用

・今日一日、自分が神に属する存在であることを覚え、感謝の祈りをささげましょう。
・自分の計画よりも、まず神の御心を求めましょう。
・与えられた関係と職場で「主の羊」として、柔和と従順をもって歩みましょう。

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