マタイの福音書 6:1–15 〈 隠れたところで輝く福音の義 〉
📖 マタイの福音書 6:1–15 〈 隠れたところで輝く福音の義 〉
15 もし人の過ちを赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださらない。
✨ 人の前の義か、神の前の義か
イエスは山上の説教において、非常に明確な問いを投げかけられます。
「人に見せるために、人前で義を行わないように気をつけなさい」(マタイ6:1)。
当時のユダヤ人たちは、施し、祈り、断食を通して自分の敬虔さを示そうとしていました。
しかしイエスがご覧になるのは、行為の“内容”よりも“動機”です。
神の前ではなく、人から認められることを目的とした義は、すでにその報いを受けているのです。
今日の私たちの信仰も同じです。
教会の中で、信仰の場で、私たちは知らず知らずのうちに人の視線を意識しています。
しかし主は、人に見えないところでささげられる真実な信仰を喜ばれます。
✨ 隠れた施しと祈り ― 神はご覧になっている
イエスは、施しをするとき、右の手がしていることを左の手に知らせてはならないと言われました。
それは、報いを計算する信仰を捨てなさい、という意味です。
祈りも同じです。
人に聞かせるための祈りではなく、神との関係から自然にあふれ出る告白であるべきです。
奥まった部屋での祈りは、静かで孤独に見えるかもしれません。
しかしその場所こそ、神の国の中心です。
神は隠れたところで見ておられ、恵みによって報いてくださいます。
それは行いによって得る報いではなく、恵みとして与えられる応答です。
✨ 主の祈り ― 福音によって学び直す祈り
マタイ6:9–13の主の祈りは、祈りの本質を示しています。
この祈りは、神を動かすための言葉ではなく、私たちの心を神に合わせるための恵みの型です。
「御名があがめられますように」という告白は、
人生の目的が神の栄光にあることを認めることです。
「日ごとの糧をお与えください」という祈りは、
今日を恵みによって生きるという信仰の表現です。
そして、赦しを求め、赦す祈りは、
福音によって結ばれた新しい関係から生まれる実です。
✨ 赦し ― 福音が人生に現れる場所
イエスは祈りについて語られた後、特に「赦し」を強調されました(6:14–15)。
それは、赦しが救われた者に必ず現れる実だからです。
私たちはまず、神から赦されました。
その恵みを深く知るほど、他者を赦す道へと招かれます。
赦しとは、福音に対する信仰の応答なのです。
🙏 祈り
隠れたところでご覧になる神よ。
人の評価ではなく、主の御顔を求める者としてください。
施しと祈り、そして生活のすべてにおいて、福音の動機で歩ませてください。
赦された者として、赦す恵みを今日も生きることができますように。
主の国とその義をまず求めて歩ませてください。
🔍 適用
今日一日、人の視線ではなく、神のまなざしを意識して行動してください。
短くても、奥まったところで主の祈りから一日を始めてみてください。
心に残っている憎しみや傷を主のもとに置き、赦しへの一歩を踏み出してください。
💡 黙想ポイント
マタイの福音書6章は、「よく見せるための信仰」を手放し、
「神の前で生きる信仰」へと私たちを招きます。
隠れたところで始まった福音の光は、やがて人生全体を照らします。
今日も、ただ恵みによって、ただキリストのうちに、神の栄光のために生きてください。
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