マタイの福音書 9:1–13 <罪人を招かれる、憐れみの主>

📖 マタイの福音書 9:1–13 <罪人を招かれる、憐れみの主>

13 あなたがたは行って、『わたしは憐れみを望む。いけにえは望まない』とはどういう意味かを学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。


罪を赦す権威 ― 真の癒やしの始まり

イエスは中風の人を癒やされる前に、まず
「あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)
と宣言されました。人々は身体の回復を期待しましたが、主は人間のより深い問題、すなわち「罪」を先に扱われました。
それは、すべての苦しみの根が神との関係の断絶にあることを示しています。
真の癒やしは、外側の回復ではなく、神の前での回復から始まるのです。


義とされる道は、行いではなく恵み

律法学者たちは、イエスの罪の赦しを神への冒涜だと考えました。
しかしイエスは中風の人を立ち上がらせることで、ご自分が罪を赦す権威を持つお方であることを明らかにされました。
ここで私たちははっきりと知ります。
人は律法を守ることで義とされるのではなく、キリストの権威と恵みによって義とされるのです。
これこそが「恵みのみ」「信仰のみ」の核心です。


取税人マタイを招かれるイエス

イエスは人々から蔑まれていた取税人マタイに向かって、
「わたしに従いなさい」
と言われました。資格のなさは、召しを妨げませんでした。
むしろ、その場所こそが恵みが注がれる場所でした。
イエスは、自分を正しいと思う人ではなく、自分を罪人だと知っている人を招かれます。
主の召しは変えられた人生を求めますが、その始まりはいつも無条件の恵みです。


憐れみを望まれる神

イエスはホセア書の言葉を引用して宣言されました。
「わたしは憐れみを望む。いけにえは望まない。」
神が喜ばれるのは、宗教的な形式や外面的な敬虔さではなく、罪人に向けられた憐れみの心です。
福音は私たちを裁くために来たのではありません。
福音は、罪人を生かすために来たのです。


🙏 祈り

憐れみの主よ。
私たちは外側ではなく、心の深いところをご覧になる神の御前に進み出ます。
自分の行いや誇りを手放し、ただイエス・キリストの恵みだけにより頼ませてください。
自分を正しいと思う高慢から解放し、罪人として招かれた恵みを日々覚えさせてください。
また、受けた憐れみをもって隣人を抱く者としてください。


🔍 適用

・ 私は今も、自分の行いで自分を証明しようとしていないでしょうか。
・ イエスがまず罪を赦されたように、人生で最も深い問題を主に委ねましょう。
・ 裁く場所から一歩退き、憐れみの場所へ踏み出してみましょう。


💡 黙想ポイント

イエスは正しい人を探しに来られたのではなく、
罪人を生かすために来られた救い主です。
私たちの希望は宗教的な熱心さではなく、
罪を赦す権威を持つキリストにあります。
今日も、恵みによって召された者として、謙遜に主に従いなさい。

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