マタイの福音書 9:27–38 〈 憐れみをもってご覧になる主、収穫の働き手を遣わされる 〉
📖 マタイの福音書 9:27–38 〈 憐れみをもってご覧になる主、収穫の働き手を遣わされる 〉
38 だから、収穫の主に願いなさい。
収穫のために働き手を送ってくださるように、と。
✨「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」
イエスに従ってきた二人の盲人は、切なる声で叫びました。
「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください。」
彼らは目が見えませんでしたが、イエスがだれであるかは見えていました。
イエスは彼らに言われます。
「わたしに、それができると信じているのか。」
癒やしは、能力の問題ではなく、イエスをだれと信じるかの問題です。
信仰とは、主にすがる全人格的な信頼です。
✨「あなたがたの信仰どおりになるように」
イエスは彼らの目に触れて言われました。
「あなたがたの信仰どおりになるように。」
ここでの信仰とは、功績ではなく、恵みを受け取る空の手です。
イエスは憐れみをもって近づかれ、癒やしはその憐れみの実として与えられます。
しかし主は、
「だれにも知らせてはならない」と厳しく命じられました。
奇跡そのものが目的ではないからです。
しるしは、常に福音へと私たちを導くものなのです。
✨ 憐れみをもつ羊飼いの御心
イエスは病を癒やし、悪霊を追い出されただけでなく、
群衆をご覧になって深く憐れまれました。
彼らが、羊飼いのいない羊のようであったからです。
主のまなざしは、個人の問題を超えて、共同体の状態に向けられています。
ここでイエスは方法論を語られません。
まず、祈ることを命じられます。
「収穫は多いが、働き手が少ない。
だから、収穫の主に、働き手を送ってくださるよう祈りなさい。」
働き手は、人の計画ではなく、神の召しによって立てられるのです。
✨ 恵みによって見、恵みによって遣わされる
マタイの福音書9章は、癒やしと宣教を一つに結びつけています。
憐れみによって癒やされた者は、再び憐れみの通路として召されます。
私たちが福音を伝える理由は、優越感ではありません。
恵みによって負債を負う者とされたからです。
教会は観客席ではありません。
主の御心を抱き、世へと遣わされる共同体です。
🙏 祈り
憐れみの主よ、私たちの目を開いてください。
この世を、さばきの目ではなく、主の御心で見ることができますように。
恵みによって癒やされた者として、沈黙ではなく、従順をもって応答させてください。
収穫の主である神よ、今日も私たちをあなたの働き手として用いてください。
🔍 適用
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イエスを「問題解決者」ではなく、「主」として信じているか、点検しなさい。
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周囲の人々を、さばきではなく、憐れみのまなざしで見なさい。
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今日、一人のために祈り、福音を分かち合う機会を求めなさい。
💡 黙想ポイント
イエスは、見えない者の目を開き、
迷った群衆を憐れまれます。
その憐れみを知る者を、再び働き手として召されます。
今日も、恵みによって見、恵みによって従いなさい。
収穫の畑は、すでに私たちのそばにあります。
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